巷では、オープンダイアローグなるものが殷賑を極めているそうだ。薬なんてシロモノは資本主義や商業主義に毒された医者と製薬会社が結託して広めているだけで、本当は丹念な対話さえ繰り返していけばどんな病も魔法のように消えてなくなるのだという言説がもし本当だとしたら、それはそれでまた非常におめでたい話ではある。そもそも薬と対話は「論理階梯logical type」を異にするものなので、比較して優劣を決めようとすること自体がおかしなことだとは思わないのだろうか。そんなことを考えながら、ここ数年、仲間たちとともにリフレクティングに取り組んできた。それは、薬を手放して対話だけで病を治そうと考えたからではなく、また何か新しい画期的な治療法を開発するためでもなく、ただただ単純にことばと対話が本来持っている呪術的なパワーを私たちの手元に取り戻したいと考えたからである。
こんなことを書くと、ほらやっぱり似非科学的なオカルトじゃないのかと思われる向きもいるかもしれない。あるいは、うまいこと言ってるけど、どうせそのうちどこからか得体の知れない小瓶に入った水のようなものを持ってきて高く売りつけるんじゃないのかと眉を顰めて警戒する人もいるかもしれない。さもありなん。ことばとは本来、言霊であり、呪力を秘めたものであるのだから。そのことを柄谷行人は交換様式Aにおける「物神=フェティッシュ」と呼んだのである。あるいは、ジョルジュ・バタイユなら「呪われた部分」とでもいうべきか。あ、忘れないうちに一応断っておきますが、私自身は商売っ気がからきしないので何かを売るつもりなんぞは毛頭ありません。悪しからず。
ところで、一般的にはリフレクティングはオープンダイアローグの中の対話実践という捉え方で概ね間違いはない。そして、各種の研修会などで一番多くの人々の関心を惹くのがオープンダイアローグの7つの原則の中に含まれる「不確実性への耐性tolerance of uncertainty」という概念であろう。しかしながら、この不確実性に耐えるということはそもそもどういうことを意味するのであろうか。大体、不確実性などという曖昧なものに対して耐性という言葉を組み合わせるのもどうもミスマッチのような気がしてならない。toleranceは寛容をも意味するから、曖昧さを受け入れるとでも言い換えたほうが良いのかもしれない。あるいは曖昧さと戯れる?
オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)が公開しているガイドラインには、「答えのない不確かな状況に耐える」ことと書いてあり、その具体的な考え方として「結論を急がない(まあ、いいかな)」、「すぐに解決したくなる気持ちを手放す(ちょっと大変かも)」、「葛藤や相違があったとしても、その場にいる人々の多様な声を共存させ続ける(かなりやばい)」、「対話を続ける中でこそ、そのクライアントと家族ならではの独自の道筋が見えてくる(たぶん無理)」などといった例が挙げられている。まとめてみると、「のらりくらりと結論を先延ばしにしながら、できるだけ多くの人々の話を聞き、当事者たちがそれなりの結論を出すのをひたすら待つ」ということになるだろうか。これだと治療者はほとんど役立たずのでくのぼうのようではあるが。
この分かったような、それでいてやっぱり分からないような曖昧さが魅力なのかと妙に感心していたら、今度は「ネガティブ・ケイパビリティnegative capability」という耳慣れない言葉に出会った。提唱しているのは帚木蓬生こと、精神科医の森山成彬で、その名もずばり『ネガティブ・ケイパビリティ-答えの出ない事態に耐える力-』という本も出版されている。それによると、この言葉の出典はバイロン、シェリーと並ぶイギリスの有名なロマン派詩人ジョン・キーツが弟宛に出した手紙で、ウィルフレッド・R・ビオンがそれを再発見して精神分析の治療の場に導入したことで人口に膾炙するようになったという。
ビオンといえば、こころの容器(コンテイナー)の理論にみられるように、いまだ意味を成さない様々な感情や感覚要素(β要素)がやがて意味を持つもの(α要素)に変化し熟成するまでじっくりと持ちこたえる(コンテイニングする)度量の大きさが何よりの特徴である。したがって、彼が重視する臨床でのネガティブ・ケイパビリティとは、謎は謎のまま宙ぶらりんかつ曖昧な状態にどこまでも耐え抜くいいかげんさ(もちろん好い加減という意味です)に満ちた能力のことを指していると思われる。そして、それはそのまま不確実性への耐性という概念とほぼ正確にぴったり重なり合うといえるだろう。というか、やっぱり治療者は能なしの昼行灯にしか思えないのだが。
ネガティブ・ケイパビリティ(負の能力もしくは陰性能力)の対極にあるポジティブ・ケイパビリティ(正の能力もしくは陽性能力)というものについて考えてみると事態はより一層はっきりするかもしれない。ポジティブな能力というのは、問題に直面するとそれを速やかに分析し快刀乱麻を断つように解決する能力のことであろう。どんな相手に対しても一歩も引かずタフに交渉し、どんなに不利な状況からも相手とウィンウィンの関係に持ち込んでいく。それはこの生き馬の目を抜くような競争社会において他人を出し抜いて成功するには欠くべからざる重要なスキルであるに違いない。それに対して、ネガティブ・ケイパビリティとはそういうことを一切しない能力のことである。
そのようなものをそもそも能力と呼べるのか。はたまた、そうした悟りのような境地にはいったいどうすれば到達できるのだろうか。ビオンは記憶も理解も欲望も捨ててこそ初めて行き着ける場所だと、まるで禅問答のような訳のわからないことを書き残している。それでは凡人は困るのでもう少し仔細に検討してみると、記憶とはつまり歴史のことであろう。そして、歴史は進歩に向かって前進的に時間が経過していく勝者の歴史を一般的には意味している。また、理解とは解釈のことである。解釈はこの世をすべて意味と目的で埋め尽くし、それ以外のものを排除していくことでもある。そして最後に、欲望とは(ジャック・ラカンによれば)常に他者の欲望の謂である。そうしたものをすべて打ち捨てることによって得られる境地とははたしていったいどんなものなのだろうか。
ここで、私などはヴァルター・ベンヤミンの有名な「新しい天使Angelus Novus」が表象する弱者の歴史概念のことをどうしても思い浮かべてしまう。パウル・クレーが描く絵の中の天使は確かに未来に向かって進んでいくのだが、その視線はずっと過去に向けられたまま前を向くことは決してない。歴史は進歩に向かって直線的に進むわけではなく、夥しい瓦礫の山を積み残しながら何処とも知れぬ未来へとまるで糸の切れた凧のように揺れながら進んでいくのだ。弱者の歴史とは、常にそうした瓦礫の記憶である。
このような弱者や弱さに焦点を当てた活動のひとつに北海道浦河町のべてるの家のそれがある。よく知られる「弱さの情報公開」とか「弱さを絆に」、「安心してサボれる会社づくり」、「右肩下がりの援助論」などといった、ほとんどやる気がないとしか思えないようなぐうたらなキャッチフレーズ群は、歴史は進歩し人は成長し物事は必ず良い方向に向かって進んでいくといった単純な進歩史観に対する痛烈なアンチテーゼにもなっている。それは生産性などともまったく無縁の、今を必死に生きる匿名の人々の声(こえ)なき聲(こゑ)のようでもある。かつてヴァッティモ&ロヴァッティは暴力性と決別した弱者が持つ「弱い思考」という概念を提唱したが、ネガティブ・ケイパビリティとはそうしたものともゆるくかつ深くつながっているのである。
一方、ネガティブ・ケイパビリティはキーツがまったくの無から創造したものというわけでもない。彼はウィリアム・シェイクスピアが既にそれを持っていたと弟宛の手紙の中で述べている。そして、シェイクスピアはフリーメイソンのメンバーで錬金術にも深い関心があったと伝えられている。よく知られる『マクベス』の作中の三人の魔女の有名な科白、「きれいは汚い、汚いはきれい」はヘルメス主義やカバラなどといった錬金術から派生した神秘主義との関連も深く、また中世の神学者ニクラウス・クザーヌスの「相反するものの一致」という有名な概念をも想起させる。つまり、ネガティブ・ケイパビリティの起源は思いのほか古そうなのである。
近代以降の思想史を通覧しても、ネガティブ・ケイパビリティと関連のありそうな概念は実に枚挙に暇がない。たとえば、すぐに思いつくところではエトムント・フッサールの現象学的判断停止(エポケー)であるとか、マルティン・ハイデッガーの放下(ゲラッセンハイト)であるとか、はたまたルイ・アルチュセールやピエール・ブルデューの認識論的切断(ルプチュール)などもそうした考え方の伝統の上に築き上げられてきたものであろう。取り敢えずちょっと立ち止まって対象から距離を置いて眺めてみる。あるいは少しの間(ま)を挟んで様子を見る。極めて乱暴にまとめていうとそういうことであるが、これがなかなか奥の深い話なのである。
この間を置くという行為は実はリフレクティングにおいても極めて重要な肝(きも)になっている。実際、リフレクティングの創始者(あるいは発見者といった方がよいか)であるトム・アンデルセンは、理学療法士のアデル・ビューロー=ハンセンから呼吸を媒介とした筋肉の緊張と弛緩という間の重要性を学んだといわれている。また、矢原隆行も間を創出するリフレクティング・トークと場を創出するリフレクティング・プロセスとの違いを明確に区別している。話し手と聞き手、そしてリフレクティング・チームという場を設定するだけでなく、会話における間、特に沈黙のようなものを重視することが極めて重要なのである。何故なら、沈黙とは実は内的会話がもっとも活発に行われている時間だからである。
さあ、あなたも会話の途中でしばし口を塞ぎ、そしてじっと耳を澄ませてはみませんか。その時、あなたは声としては何も聞こえないかもしれないが、その場にいるそれぞれの人の胸の内に広がる声なき聲が静かに共鳴しているのを感じられないだろうか。それが間の重要な働きである。そして、その間を大切に育むために、私たちは時にでくのぼうのように、あるいは昼行燈のように、そして何よりも新しい天使の如く不確実性と曖昧さの間(あわい)にそっと身を委ねることが必要なのだ。ん?でも、それってもしかしてヤブ医者になれっていうこと??
【参考文献】
浦河べてるの家:べてるの家の「非」援助論.医学書院,2002.
帚木蓬生:ネガティブ・ケイパビリティ-答えの出ない事態に耐える力-.朝日選書,2017.
矢原隆行:リフレクティング-会話についての会話という方法-.ナカニシヤ出版,2016.
ヴァルター・ベンヤミン(鹿島徹訳):歴史の概念について.未来社,2015.
【Web文献】
オープンダイアローグ対話実践のガイドラインウェブ版(第1版):オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)のホームページより
*この文章は、「リフレクティングをめぐるリトルネロ」というタイトルでかつて熊精協会誌No188(pp50-52,2021)に発表したものをもとに、若干の加筆・訂正を加えて再掲したものです。