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第10話:解離をめぐる冒険

 人間という種が独占してきた特権的地位を剥ぎ取って、あらゆる生き物の視点から物事を捉え直そうという試みが流行っているといいます。パースペクティヴィズムとかマルチスピーシーズ人類学とかいうらしいです。人類学における存在論的転回と呼ぶ人もいます。彼らにとっては、ちょっと前まで思想界を席巻していたポストコロニアリズムやポストモダニズムといえども所詮は西欧中心主義や人間中心主義を乗り越えているとはいえず、そういう意味では既に時代遅れの産物ということになるのでしょう。そして、そうした新しい思考様式には新しい表現媒体、つまり論理的な文章や写真などといったものよりもマンガやアニメーションのようなものの方が向いているのではないかという人もいます。

 同じようなことは解離現象をめぐる言説にも等しく当て嵌るのではないでしょうか。オンラインゲームのレイドに参加するキャラクター、メタバースの中のアバターなど、極めて解離と親和性の高いと思われる事象が、今日アニメの発展とともに生活の至るところに氾濫しています。もしそうだとしたら、アニメそのものを題材に解離現象を考え直してみるのもまったく意味のないことではあるまいと思うのです。

 以前、ある論文の中で「憑依文化から解離文化へ」という標語を提示したことがあります。そこでは神話的で宗教的な伝統社会からアニメやゲームといったサブカルが隆盛を極める現代社会へと徐々に変化していった中で、憑依もいつの間にか多重人格的な解離へと密かに変貌を遂げていたのではないかということを指摘しました。いまや憑依と多重人格との境目はその時以上に曖昧なように見えます。その考察の基となったのが「攻殻機動隊Ghost in the Shell」というアニメでしたが、よく知られているように士郎正宗によるこの用語はアーサー・ケストラーの主著「機械の中の幽霊Ghost in the Machine」から援用したものであるといわれています。

マンガ評論ではないので詳細は省きますが、ここで使用されているゴーストという用語は一般的には魂と解釈してほぼ問題ないでしょう。そして、魂とリアルな肉体とは辛うじて脳神経系を介して繋がっているだけなので、それ以外の肉体は早い話なくても一向に構わないようです。実際、主人公のひとりである草薙素子は完全義体化、つまり脳神経系を除いてほぼ全身の全てをサイボーグ化しています。それどころか、一時はその義体さえも捨て去って電脳の世界にダイブしていた時期もありました。それは記号論的にいうと対応するシニフィエを持たないシニフィアン、つまりゼロシニフィアンということになるのですが、そうなるともはや憑依霊やマナのように神格化された存在との区別すら曖昧です。ただ、生身としての脳神経系を失うとゴーストも失われてしまうようで、最新シリーズである「攻殻機動隊SAC_2045」に登場する江崎プリンは、一度死んだ後に電脳に残されたメモリーを元に再生されたのですが、何故かゴーストもないくせに涙が出るといって非常に戸惑っていました。

ついでに、スタンド・アローン・コンプレックス(SAC)という用語にも少しばかり注釈が必要かもしれません。これは個としてはそれぞれ独立していながら全体としてはひとつの意図に沿って行動しているということらしいですが、有り体にいえば集団的無意識のことを指しているのではないかと思われます。そして、そこにはプリンのようなゴーストを持たないアンドロイドやタチコマのようなAI搭載のロボットでも参加できるというところがミソです。つまり、人間とそれ以外のものとのハイブリッド化も可能なのです。だとしたら、単なるコンピュータープログラムのようなものであっても憑依霊や交替人格として機能することもありうるのではないかということになるのですが、そこまで議論を突き詰めると些か眉唾ものになっていきそうな感じがします。ということで、今日のところはここまでにしておきましょう。

【参照文献】
・拙著:非定型精神病とエクスタシー-憑依文化から解離文化へ-.最新精神医学11(2);147-152,世論時報社,2006.
・拙著:歴史と文化における解離(岡野憲一郎編:専門医のための精神科臨床リュミエール20「解離性障害」;10-19,中山書店,2009.)