これまでも折々に触れてきたように、私の解離研究のきっかけはシャーマン研究でした。そもそもシャーマンに興味を持った理由は、ちょうど二十歳の頃に手にした真木悠介の「気流の鳴る音」という本の中で、カルロス・カスタネダの「ドン・ファン」シリーズについての解説を読んだからです。カスタネダは、マイケル・ハーナーと並び称されたネオ・シャーマニズムの旗手の一人で、シャーマニズムをただ研究するだけでなく自ら実践することの重要性を説いた人です。つまり、研究者本人がシャーマンを目指すことが大切だというのです。そんな訳もあって私も最初はいわゆる「なんちゃってシャーマン」を目指してみたのですが、程なく才能がないことを思い知らされます。何故ならどんなに激しい修行をしても、またどんなに格の高いといわれる霊場に行ってみても驚くほど何も感じないのです。せいぜい真冬の岩木山での1週間に及ぶ寒行で気分が少しハイになったのと、ほとんど人の立ち入らない久高島の霊場で厳粛な雰囲気を感じて身震いしたくらいです。つまり、私は極めてありきたりな凡人なのでした。
ところで、解離能力と霊能力、そして催眠感受性は全く同じものというわけではありませんが深い関連性があります。一般に、催眠感受性の高い人ほど解離障壁が低く(つまり解離しやすい)、また霊的体験のある人が多いようです。スタンフォード催眠感受性尺度を用いた研究によると、催眠感受性は正規分布ではなく双峰性分布を示すことが知られており、約2割の人には催眠感受性がほとんどありません(つまり全く催眠に入らない人たちもいる)。ちなみに、私自身は催眠に入ることは入りますが、深度も浅いし時間もかかるので双峰性分布の低いほうの集団に属するようです。つまり、私には解離能力と霊能力はあまり期待できないということです。
ネオ・シャーマニズムに憧れてシャーマン研究を始めたのに、自分にはシャーマンになる素質が全くないことに最初のうちはがっかりしていました。でも今では、何も感じないことも才能のひとつだと思って割り切っています。それは沖縄のシャーマンであるユタから直接指摘されたことでもあります。沖縄を含む南西諸島一帯のユタにはバンと呼ばれる専門分野のようなものがあります。たとえば仏おろしをするミーグソーバン、水死者を扱うリュウグウバン、方位方角を扱うジーチバンなど。バンは漢字表記すれば番、つまり当番のように役目や役割といった意味です。半分は揶揄でしょうが、「先生の場合はガクシャバンさーね」と旧知のユタからはよく言われたものでした。
シャーマン研究をするようになって初めて憑依やエクスタシーといった神憑り状態を目の当たりにした時の感動は今でも忘れませんが、精神科の臨床場面で初めて解離性同一症DIDの人のスイッチングを見たときの感動も同じくらい印象的で忘れられないものです。両者は見かけ上は驚くほど瓜二つの現象でした。強いて違いを探せば、前者はコントロールされた体験であるのに対して、後者はコントロールされない、したがって深い健忘を伴うものであったということくらいです。健忘を伴うのは、それが元々は主人格が傷つかないようにする防衛戦略のひとつだったからでしょう。
さて、予想に反して長く続いたこの連載も今回がいよいよ最終話です。解離を巡って実に様々な話題に触れてきましたが、私が一番強調したいと思っていたのは、解離の利点あるいは効用というか、解離の肯定的側面についてです。解離は単なる病的な症状という範疇にのみ留まるものではありません。シャーマニズムの文脈から眺めると、人がこの世界をどう認識しこの世界とどう関わるのかといった、きわめて根源的な問題ともそれは関連しています。かつて、中井久夫が統合失調症という病いに生物学的疾患を超えた人類史的な意義を見出したように、私は解離という現象に脳の可能性を広げるために予めビルトインされていたオルタナティブな神経回路という進化論的な意義を付け加えてみたいと思います。
【参照文献】
・真木悠介:気流の鳴る音-交響するコミューン.筑摩書房,1977.