数年前の話ですが、東大の研究チームがKIF21Bという分子モーターたんぱく質に恐怖記憶を和らげる働きがあることを発見したという記事が新聞に掲載されました。今までなら、外傷後ストレス障害PTSDの患者さんから辛い記憶だけを消して欲しいと頼まれても、その記憶に対する考え方を変えることはできても記憶それ自体は消去できないと答えてきました。しかし、最近になって、このKIF21Bのように、もしかしたらトラウマ記憶そのものを書き換えることができるかもしれないと思わせるような知見が散見されるようになりました。
たとえば、オランダのある研究チームは、電気けいれん療法ECTを用いた記憶消去実験を行いました。それによると、まず39人のうつ病患者に2つの辛い話に関する写真を見せます。そしてその1週間後、無作為に全体を3つのグループに分け、2つのグループにはどちらか一方の話の内容を思い出してもらいます。そしてその直後にECTを施行し、ひとつのグループは当日に、もうひとつのグループは翌日に記憶テストを行いました。残りのグループはECTを施行せずに記憶テストだけを行いましたが、するとなんと驚いたことに、思い出した後にECTを施行し翌日に記憶テストを行ったグループだけが記憶が曖昧になっていたというのです。
これとは別に、マウスの実験では記憶に関して以下のことが判明しています。まず、記憶は一旦獲得され脳内に固定された後も、常に脆弱化、再固定化あるいは消去といったプロセスを経て変化し続けています。次に、記憶を想起(再活性化)するとその記憶は一時的に不安定になります。つまり可塑的で柔らかくなるわけですが、ここで何もしなければ再固定化して元に戻り、ECTのような何かをすると消去される可能性があるというのです。そして、そのタイムリミットは5時間以内であるといわれています。
さらに、脳内たんぱく質の一種であるアクチビンの活性を阻害すると再固定化のプロセスが阻害され、増大すると消去のプロセスが阻害されることが分かってきました。同じように、内因性カナビノイド受容体の活性化によって記憶が不安定になることも分かっています。以上のことから、アクチビンやカナビノイドのような薬物を用いることによって、記憶をより柔らかく可塑的な状態にした上で、5時間以内にECTのような何らかの刺激を脳に加えれば、記憶の再固定化を阻害したり消去したりするプロセスを促進させることができるかもしれない可能性が出てきたわけです。
さて、今まではECTと心理療法はまるで水と油のような拮抗関係にあると考えられていたので、両者を組み合わせるなどまったく考えられないことでした。しかしながら、ECTよりは脳に対する侵襲性が低いと思われる経頭蓋磁気刺激TMSとの組み合わせも含め、今後は想像もできないような治療法が編み出されるかもしれません。そして、記憶を自由自在にアップデートする、まるでSFのような世界がいつの日か訪れるかもしれないのです。
図:記憶の再活性化(リアクティベーション)と再固定化(リコンソリデーション)
【参照文献】
・岡野憲一郎:解離新時代-脳科学、愛着、精神分析との融合-.岩崎学術出版社,2015.