今から30年くらい前に遡る話だが、沖縄でシャーマンの調査研究をしていた頃に、インフォーマントであったユタ(注1)の一人に同行して、ある島の海岸に面した崖沿いの古いノロ墓を訪れたことがある。そこは洞窟のように少し窪んだ場所で、奥にはいつの時代からあるのか見当もつかないくらい古色蒼然とした亀甲墓が幾つも並んでいて、その一部は崩れ落ち、かつては赤や青に美しく彩色されていたに違いないが今はもうくすんだ色合いにすっかり馴染んだ厨子甕と、その欠けて穴の開いた部分から零れるように散乱している洗骨された白い骨とがとてもきれいに見えた。サンゴ礁の海の淡いブルーの色彩を借景にして眺めると、怖いというよりむしろ神々しいほど美しい。そう感じたことを今でも鮮明に思い出すことができる。
何故そのような場所に行ったのかというと、当時懇意にしていたユタが自分自身のシジタダシ(注2)のための御願に私を同行させてくれたからである。沖縄のユタは時折そんなふうに自分ひとりで自分だけのための祈願をする。彼らのほとんどはカミダーリ(注3)と呼ばれる壮絶な病的体験を経て成巫するのだが、カミダーリは一度克服すれば良いというものではなく、その後の人生において何度も繰り返し危機的状況に陥るとされている。それはウラバン(注4)と呼ばれているが、有り体に言えばカミダーリの再発である。どうやらカミダーリというものは生涯を通じて続くもののようなのだ。
さて、これから新たなシリーズのテーマにしようと考えているのは、このカミダーリを含む巫病というものについての私自身のささやかな経験とそれに基づく考察である。タイトルに新編と付け加えたのは、20年以上も前に書いた拙論「南島巫病論」のリニューアルという意味合いも込めている。私がシャーマンのフィールドワークに従事していたのは1989年からおよそ10年あまりのことなので、既に四半世紀は経過した。この間に、私の専門であった文化精神医学は多文化間精神医学と看板を架け替え、私以外にも数人いたシャーマニズム研究をする精神科医はほぼ姿を消した(といってよいだろう)。精神医学にとってシャーマンはもはや研究対象にすらならないものなのだろうか。
そんなふうに思っていたところ、最近、私のクリニックのホームページに掲載された記事を見て、どうしたらシャーマンになれますかと真顔で相談にくる人がちらほら現れるようになった。私自身には何の霊能力も備わっていないと予め断っているので、正直な話、そんなにシャーマンに憧れる人がいるのかと思ってちょっと驚いた。試しに動画サイトを幾つか覗いてみると、シャーマンや御嶽を訪ねる動画が意外なほどたくさんアップされている。そのように多くの人がシャーマンに関心を抱くこと自体はむしろ歓迎すべきことなのかもしれない。しかし、一方でどれほど多くの犠牲や不幸が積み重ねられてきたか、知る人は少ないだろう。たとえば、神破れという言葉がある。成巫できないままカミダーリが頓挫するという意味である。中には、フリムン(注5)といわれたまま精神病院の鉄格子の奥で死んでいった者たちもいる。そんな影の部分も含めて、シャーマンになるとはどういうことなのかを少しでも多くの人に知ってもらおうと思ったのが、今回、再び筆を執ることにした一番の理由である。
注1:南西諸島のシャーマンは、大きくノロ(祝女)とユタ(巫女)の2系列に分けられる。柳田国男や中山太郎らの分類によれば、ノロは神和系の神社巫女であり、ユタは口寄せ系の歩き巫女であるが、前者はプリーストすなわち神官で、後者のみをシャーマンとする考え方もある。また、ユタはノロの零落したものと考える者もいる。一方、ノロでは家系や血統が重んじられるのに対し、ユタはカミダーリと呼ばれる巫病を克服すれば誰にでもなれる。そして、ノロが原則的にムラや国家などの公的祈願に従事するのに対して、ユタは個人的な祈願に従事するという特徴がある。
注2:シジタダシ(筋正し)とは、先祖を一代一代遡りながら霊障となっているものを同定し糺していくことで、ユタのもっとも重要な仕事のひとつである。代表的な霊障にはたとえばウグァンブスク(御願不足)、チャッチウシュクミ(嫡子押し込め)、チョーデーカサバイ(兄弟重なり)、イナググワンス(女元祖)、フタバウシュクミ(蓋霊押し込め)などがあり、ほかに海での水死など正常ではない死に方をした場合も含まれる。
注3:カミダーリは、神垂り、神祟り、神憑りなどと漢字表記され、先島ではカンブリ(神降り)やカンツキャギ(神突き上げ)、奄美ではカミザワリ(神障り)などとも呼ばれる。学問的には巫病(shaman’s diseaseもしくはShamanenkrankheit)、すなわちシャーマンになるための召命の病いである。
注4:ユタの職能も専門分化しており、死んで間もない人の霊を降ろすミーグソーバンのほかに、地霊を鎮めたり方位方角を占うジーチバン、水死者を弔うリュウグンバン、国事を占うクニバン、神々の問題を扱うカミバンなどが知られている。その際のバンとは順番や当番のバンと同じく役割のような意味合いと思われるが、ウラバンとは裏の役割、すなわち本来の仕事や役割とは異なる影の部分ということである。映画スターウォーズにおけ
るフォースのダークサイドのようなものを想像すると分かりやすいかもしれない。
注5:フリムンとは狂人、つまり統合失調症などの精神病を意味する。もっと砕けた意味では単なる馬鹿者といった感じで日常的にも使われる。一方、認知症などで呆けた人のことは掛け金が外れた者という意味でカニハンダーと呼ぶ。いずれにしても、これらとカミダーリとは南西諸島一帯ではまったく別なものとして認識されている。実際、ユタの中にはカミダーリではなく何らかの精神病だとハンダン(判断)すると、婉曲に精神病院がある方角を指し示すといったことが、文献上でも知られているし私自身も見聞したことがある。
【参考文献】
小林幹穂:南島巫病論-文化精神医学からみた“神々の病い”-.文化精神医学序説-病い・物語・民族誌-.pp93-114,金剛出版,2001.